生きるとは

我慢とは仏教用語で「耐え忍ぶ」、「辛抱する」という意味があるそうだ。
それでは、今を生きるには多くの我慢が必要なのだろうか?
好き勝手に生きることを我慢するという捉え方ではなく、
「辛抱する」という語句の意味からの限界もあり、
「辛抱ができなくなる環境とは」と考えると
喜びが無い
自由にならない
頑張っても心が満たされない
認められない等、自分なりであるが浮かんでくる。
では、心が満たされるにも人ぞれぞれの満足度の違いがあり、
小さな喜びで感動ができる「幸せセンサー」の心の持ち主であったり、
ある人は「物欲」で満たされる場合もあり、
つまり「心の在りよう」が肝心かなめであるように思えてくる。
心が磨かれた人の感性は「感動・感激・感謝する」というベクトルが違い、
「今をより良く生きる」ということは、
「いかに心が育っているのか」が問いただされているように思えてくる。
今を生きることは「瞬間の人生の積みかさね」で、
お年寄りが「あっという間の人生だったよ」と言うように
ふり返ると瞬間の人生であり、
それならば、
仕事の時間は仕事に没頭し
互いが認め合い、
物事の優先順位は、
あるときは「家庭」や
また、「自分の為の時間」や
今日は「絶対仕事だ!」と言えるような
バランス感覚がとても大事で互いが納得するルールを自らつくりだすことができる。
「生きること」は辛抱ばかりではつまらない。
短い人生を有意義に生きることが
体は滅しても次の「魂の世界」(信じる人)は延々と続き、
その感情のなかで過ごすのであれば
「いかに心を育てることが大事なのか」がぼんやりと浮かんできた。
おはようございます。
昨晩から悶々とグルグル脳裏を過り、
このような書き出しになりました。
いかに人生を生き切るかがとても貴重に思えています。
朝からこ難しい話ですいません。
囲炉裏端の伝承話のように聞いていただけると幸いです。
(#^.^#)
ありがとうございます。