真の幸せとは
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木々が茂る公園は、
様々な小鳥の声が混じり合い
瞼を閉じて耳を澄ますと野鳩のような声や、
そこに、負けないぞと雄叫びを上げるカラスが
低空でまるで飛行機の着陸時のようにスマートに飛んでいる。
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また、飼い主に抱かれた犬は、
自分の顔を見ると大きな目で「なにしているの」と
言わんばかりの大きな瞳で無言の訴えがあり、
飼い主も気づき一瞬立ち止まり、
こちらの「こんにちは」の挨拶が終わると、
何事も無かったように戻って行った。
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人慣れした犬は、
自分は、人間と思っているようで、
表情豊かで愛らしく、
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しかし、
幼いころから拾ってきた野犬や猫、
多くは、ペットの最期の別れを何度も体験した者からは、
喜びの瞬間と最期の瞬間が同時にこみあげてくるのは、
3年前のペットの別れが思い出され、
「最期のあのときの医療は、いらなかったのだ!」という、
そのときの感情がまだ癒されていないのだなと、もう一人の自分が言っている。
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だが、
人間を愛し
人から愛されるペットや、
手入れの行き届いた公園の何百本、いや何千本もある木々は、
『環境が整いとても幸せなんだよ!』と打消しの自分もいる。
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しかし、これは他である自分からの目線であり、
木々も、
犬も、
猫も、
野山を駆けめぐるカラスも、
ほんとうは何が一番幸せなのかは、
周りの者が評価するものではなく、
夫々の魂が満足しているか否かであり、
その魂の満足とは
高価な餌でもなく
ごはんにカツオが一番の犬や猫もいるように、
主体となる自身のみが感じることができるもので、
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日常の暮らしの中に
心を癒す言葉や、
苦しい時にやさしく頬をなぜる温かな風、
通り過ぎる人からの素敵な笑顔の交流であったり、
友人等との屈託のない笑顔の場面であったり、
日常の暮らしの中で自然と身についた「幸福感の味わい上手な方」が
真の幸福を身にまとうことができるのかと、
すれ違ったペットや
手入れの届いた木々からふと気づかせていただいた。
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