幼い頃の闇となる自分と向き合う

まだ、昇華されていない保育園での先生との解決に

今の自分から向き合わせていただく。

いつも「〇〇さんきちんとしなさい!」と睨みつけられていた幼い自分が浮かんでくる。

その時の自分の姿は、

しゃがんで、石で地面に何かを書いている様子である。

なぜ、怒られるのか、まったくわからない自分がいる。

「きちんとしなさい」という大人の言葉が不明。

きちんとしなさい。

こうしなさい。

ああしなさい。という命令言語が飛び交い、

緊張し怯えている4歳頃の自分がいる。

そういう自分は、

次第に疑問から目線を遠くに合わせ、

「先生は、なぜ〇〇ちゃんには、笑顔でやさしい言葉をかけているのだろう」と、

呆然と立って見ている自分がいる。

なぜなのだろう?

どうしてなのだろう?

なぜ、自分ばかりが叱られなければいけないのだろう?

〇〇ちゃんのおうちはお金持ちだからかな?

「母さんは、なぜ先生に何も言ってくれないのだろう」と。

しかし、幼心に「言ってはいけないことなのだ」と、

ことばには出せず、

「行きたくない」と登園拒否をしている自分は、

姉の手を握りながら下を向き、

泣き、

自分の足元をみている映像が浮かんでくる。

過去の自分はここまでの記憶で終わっていたが、

これからの解決すべき自分から、

・なぜ、あの先生は一方的に指示・命令をだしていたのだろうか。

・その背景は、何があったのだろう?

・先生の幼い頃の背景は、どうだったのだろう?

・保育園での立場は、どのような立場だったのか?

・家庭内で経済的にも頑張る必要があったのか?

・年配の先生は体がきつくはなかったのだろうか?

と、一方的な嫌な押し付けをする先生を理解しようとする糸口を探している自分がおり、

今の自分から、いくつかの思い当たる背景が浮かんできた。

解決を導く為には、

ダメージを受けた場面に焦点を当て四方八方から探ると、

過去の嫌な感情が今の冷静な自分の感情と交差し、

次第に混じり合い、

幼い自分から現代へ移行し

「そうか!こんなことで保育園も学校も行けない子供等がいるのだ」と。

また、親は忙しくても、

他者から見て冷静とは言えない行動であっても、

親は、無条件の愛で子供を守る姿を見せる必要があるのだという感情が湧いてきた。

体裁は無視して良いのだ!

これは、少しでも元気なうちから内観することで

次の行動に移行するチャンスと巡り合うことができ、

また、認知症になった場面からの視点でも、

まったく関係ないのだが、

幼い頃の嫌な記憶や感情は、最も苦しい時にその場面だけが浮かびだし

介護や看護する人々に向かい

BPSD(行動・心理症状)となって表出してくる部分も現場ではある。

学校でも保育園・家庭でも、

その日のうちに

嫌なことがあったと思う人等が

心の「もや」をはきだす場所があると、

ひきこもりから苦しむ子供や青年等も減少するように思えてくる。

子供の数が増すことは未来への活力となるが、

誕生した子供が苦しみの部屋から一歩外へでる

きっかけとなる場に投資をすることも同じように必用と思われてくる。

今の自分からは、

『私は、姉の手がとても救いになっていたのだ』と、改めて感謝が沸き上がり、

内省から、

自分が誰かにも、このような感情を与えていた可能性もあり、

そのような場に心から謝罪をしたいと思う感情とも出会わせていただいた。

感謝!